掌編小噺 「工場と異人の夏」最終回 2007.06.18
ルシアーノが明日ブラジルに帰るという日、俺達は最後のサッカーをやった。
季節は秋になったものの、まだまだ陽射しは強かった。
でもときおり吹いてくる秋風の涼しさに、俺たちは季節の移ろいを感じていた。
セイタカアワダチソウの黄色い花が揺れる空き地の真上を、アキアカネの群れが飛んでいる。
初めて二人でリフティングを楽しんだ春の朝を思い出しながら、まずはボールリフティング。
体中のありとあらゆる所を使ってボールを受け止める。
足の裏を使って空中でくるりと一回転ボールを回す「くるり」。
頭の上でボールをついて次第に細かくつきながら、最後はぴたりと頭の上で止める「オットセイ」。
ぽーんと高くボールをあげて、落下するボールを背中で受ける「バック・シャン」。
ルシアーノやその仲間達と、遊びの中で生み出していった互いの技を、一つ一つ確かめるように披露する。
トントントンとボールの弾む音が、乾いた空き地に響く。
吹き抜ける風の音が、俺たちの別れの序曲を奏でていた。
それは少しも感傷的ではなく、むしろ猛々しい気持ちにさせられる。
ボールを触れ。しなやかに、軽やかに。体の一部になるようにやわらかくボールを触れ。
やがて宙に浮いていたボールが地面につくと、それがキックオフの合図だった。
俺達は何も言わずに、どちらからともなくボールを奪いあう。1対1のミニゲーム。
1つのボールを争って、俺たちは互いの体を入れ、ぶつかりあう。ルシアーノの肩が俺の胸にあたる。
左腕でルシアーノの体を押すと、まず始めに俺のほうがボールを取った。
さあ、先攻だ。ルシアーノは瞬間に俺の動きを察知して、球を取りに体をいれてくる。
そうはなるものと、彼に教えてもらったフェイントを駆使して、俺はあいつを必死に抜こうとする。
ボールを素早く引いて、またいで、浮かして!
しかし、敵の壁は厚くルシアーノの鉄壁な守りを崩す事が出来なかい。
そのうち、とうとうルシアーノが俺からボールを奪った。
日焼けした素足が、神業の様な速さでボールを撫でていく。
早い、とてつもなく早い。
踊る様な独特のリズムで、俺をあっという間に抜いていくと、ハーフラインを越えたあたりからシュート体勢に入る。
打たせてなるものかと必死に追いついて、横から思い切り当たりをつけにいったものの、それも呆気なく交わされた。
そして瞬時にゴールコースを変えると、あいつは全く躊躇する事無くシュートした。
入る!
シュートした瞬間、そう強く予感した。
シュートされたボールはぐいーんと曲がり、工場の外壁に当たった。
息を止めた工場の外壁が、ルシアーノのシュートでバーンと撃たれたかの様に響く。
鳥肌が立つような美しいシュートだった。凄い。やっぱりルシアーノは凄い。
点を入れられたのは俺の方なのに、ルシアーノのあまりに見事な攻め方に、俺はしばし呆けたように立っていた。
「ミヤ、最後に君のシュート、見せて」
ルシアーノが壁から跳ね返ってきたボールを俺に渡した。今度は俺の番だ。
俺は黙って肯くと、ドリブルを始めた。
左足がボールの側面を捉える。この想い出がいつまでも忘れる事のない様に想いをこめて、俺はシュートを放った。
ルシアーノとの最後の試合はこれで終わった…。
「ミヤ、これから君はいろんな友達を作るといいよ。
君はこんな、素性の知れない僕とも仲良くできたしね。
学校でも、がんばって。君なら、できるよ」
ゲームの後ルシアーノは最後に俺にそう言うと、ミサンガを俺の足首に巻き付けてくれた。
「ミヤ、辛いときはこのミサンガ思い出して。僕がいつも君の事を想っている事を忘れないで」
俺と同じ年なのに、ぐっと大人びた表情をしている。
ルシアーノの言葉を大切にしていきたい。俺は強くそう思った。
そして2学期が始まった。
ルシアーノはブラジルに帰り、ルシアーノに託された想いを叶えてみようと思って、学校のサッカー部に入部した。
それは今までの自分なら、絶対にありえない事だった。
だけど、やってみれば何とかなるものだ。
朝も夕方も練習に参加して、最近は試合にも出してもらっている。この前の試合では、はじめて得点を決めたし、監督に褒めてもらった。
相変わらず一人でボールを触ってるのは変わりないけど、あまり気にはしていない。
教室の片隅やグランドで一人でボールつきをしていると、どこからともなく誰かがやってきて、俺の隣で黙ってボールをつきはじめてる。まるで、はじめてルシアーノと会った時みたいにだ。
別に無理して喋ろうとしなくても、気持ちは相手に伝わる。ルシアーノが教えてくれた事を思い出しながら、俺は今もボールを触っている。
ルシアーノ。お前、ボール蹴ってるか。
俺は今も乾いた空き地でボールを蹴っている。だから、お前もがんばれよ。
吹きぬける風は透明で、空は蒼く清んでいた。
FIN
(後書き)…これでお話はおしまいです。原稿用紙に換算すると約70枚くらいの量です。後半は、もう一度書き直しました。
拙い話を読んで下さって、本当にどうも有難う御座いました。
掌編小噺 「工場と異人の夏」その7 2007.05.31
夏休みが終わる前に、俺とルシアーノとの別れが突然やってきた。
店の扉に貼り付けた喪中と書いた紙をはがして、また新しい気持ちでサッカーを始めようと思っていた時だった。
いつもの様に夜明けと共に自転車に乗り、空き地へ出かけた。
空き地に着いた瞬間、暫くここに来ていない間に何かが変わったのを感じた。
事実、工場の煙突から煙が止まっていた。
重苦しい機械の音も、業務連絡の音も聞こえなかった。
工場は、沈黙していた。それは酷く耐え難い沈黙だった。
それでも、7時になればまたいつの様にバスが発車するかもしれない。
そして、発車した後にルシアーノのボールをつく音が聞こえてくるかもしれない。
そう思いたかった。そうであって欲しいと思った。
でも、7時を過ぎても工場は沈黙を守り、聞き慣れたボールの音も聞こえなかった。
俺は力なくボールをついた。
いつもなら、よほどの事でも聞かない限り地面に落とした事の無いボールは、
何度も何度も地面を虚しく転がった。
一日中煙の消える事がなかった工場が、煙を消した。
工場も、ルシアーノも消えたと思った……。
「くっ…」
俺は泣いた。体の底から悲しみが思いっきり突き上げてきた。
「ばっかやろー!!」
泣きながら、思いっきり相手のいないからっぽな空に向かってシュートを打った。
俺の放ったシュートは美しい弧を描いた。ルシアーノが打った様な美しいシュートだった。
空の色は憂いをおびた秋の色に変っていた。
俺は地面に伏して泣いた。泣いた……。
どれぐらい時が過ぎたのだろう。
「ミヤ」
背後から、懐かしい声が聞こえた。ルシアーノの声だ。俺は少しだけホッとした。
「ボールをだいじにつかわないと、ダメだね」
しかし、いつもとは何か違う雰囲気なのも感じる。俺は涙をぬぐうとルシアーノを睨みつけた。
「ミヤ、日本男児は泣かない…そう僕のおじいさんから聞いたことあるよ。
なのにどうしてミヤ、君はそんなに泣くの。」
会って半年しか経っていないのに、ルシアーノの言葉は驚くほど日本語が上達していた。
「お前が、い、いなくなるからと…思ってさぁ。」
俺は地面にあぐらをかくと、少し恥かしくなって笑った。でも、出てくる言葉はどうしても嗚咽交じりになってしまう。
駄目だ。何で、こんなに泣けてくるんだ。顔を隠すように涙を拭くと「泣かないで」と肩を叩かれた。
「ミヤ。ミヤは日本の中で一番の友達だ」
そう言うと、ルシアーノは煙の消えた工場を指した。
「日本が不景気なのは知っていたよ。この小さな工場も、今日でとうとうつぶれてしまった」
意外な程、ルシアーノは淡々としていた。
「潰れたなんて、そんな。おまえ、これからどうするんだよ」
これからどうする。
そう言った瞬間、俺はハッと顔をあげた。ルシアーノは俺の顔を見てゆっくりと肯いた。
「君が思っている事と同じ」
「じゃあ…」
「そう、僕はブラジルに帰るよ」
きっぱりとそう言うと、ルシアーノは微笑んだ。
「向こうで僕の家族を助けないといけない。貯金も結構できたし、出来たら学校に行きたいと思うし、サッカーもやりたい」
最後の「サッカーをやりたい」という言葉は、一際力強いものを感じた。
きっとルシアーノは、今までもこうやって出会いと別れを繰り返してきているのだろう。
本当はアイツの方がずっと寂しいのかもしれない。でも、出来るだけその気持ちを出さないようにしているはず。
そう思えたのは、ルシアーノの笑顔がたまらなく優しいからだ。
「おまえ…偉いよ、ほんと」
俺に面と向って褒められたのが恥ずかしいのか、ルシアーノは手をひらひらと振りながら「違うよ」と笑った。
「えらくないよ、ミヤ。ぜんぜん、えらくない。
むこうの子供はこれがあたりまえ。神様が決めたこと、僕はただ、流れるように生きているだけ」
「でも、偉いよ。俺がおまえの立場だったらこんなにも頑張れなかったかもしれない」
俺は立ち上がってルシアーノの肩を叩いた。
「それを言うなら僕も同じだね」
ルシアーノは俺に背を向けると、俺のボールを使ってリフティングを始めた。
「ミヤ…君とこうして出会えていなかったら」
ボールがルシアーノの膝の上で小さくはねる。そしてルシアーノの周りをモンシロチョウがひらひらと飛ぶ。
「僕はもっと早くブラジルに帰っていただろうなあ……」
まだバスの中から俺を見つめていた頃のルシアーノを想い出す。あの頃のあいつは、何処か寂しい目をしていた。
ルシアーノも俺と同じで、人には言えない孤独を感じていた。だからこそ、俺たちはこんなにも気持ちが通じたのだろう。
「君に出会えて…本当に良かったよ」
ルシアーノの最後の声は震えていた。
俺達は、進む方向が変っていく。でも、友情は変わらない。
「ミヤ」
「ああ」
初めてボールを交わした時の様に、俺たちは堅い握手を交わした。
後書き…この部分はもっと丁寧に書きたかったな。今度もう一度書き直してみようと思います。
ちなみに今日は「鮎飯」を作りました。塩焼きした鮎の身をほぐして、
それを炊き込みご飯にまぜる。
好みでみょうがや生姜、三つ葉を散らしてできあがり。
鮎の香がする御飯です。おいしかったw
店の扉に貼り付けた喪中と書いた紙をはがして、また新しい気持ちでサッカーを始めようと思っていた時だった。
いつもの様に夜明けと共に自転車に乗り、空き地へ出かけた。
空き地に着いた瞬間、暫くここに来ていない間に何かが変わったのを感じた。
事実、工場の煙突から煙が止まっていた。
重苦しい機械の音も、業務連絡の音も聞こえなかった。
工場は、沈黙していた。それは酷く耐え難い沈黙だった。
それでも、7時になればまたいつの様にバスが発車するかもしれない。
そして、発車した後にルシアーノのボールをつく音が聞こえてくるかもしれない。
そう思いたかった。そうであって欲しいと思った。
でも、7時を過ぎても工場は沈黙を守り、聞き慣れたボールの音も聞こえなかった。
俺は力なくボールをついた。
いつもなら、よほどの事でも聞かない限り地面に落とした事の無いボールは、
何度も何度も地面を虚しく転がった。
一日中煙の消える事がなかった工場が、煙を消した。
工場も、ルシアーノも消えたと思った……。
「くっ…」
俺は泣いた。体の底から悲しみが思いっきり突き上げてきた。
「ばっかやろー!!」
泣きながら、思いっきり相手のいないからっぽな空に向かってシュートを打った。
俺の放ったシュートは美しい弧を描いた。ルシアーノが打った様な美しいシュートだった。
空の色は憂いをおびた秋の色に変っていた。
俺は地面に伏して泣いた。泣いた……。
どれぐらい時が過ぎたのだろう。
「ミヤ」
背後から、懐かしい声が聞こえた。ルシアーノの声だ。俺は少しだけホッとした。
「ボールをだいじにつかわないと、ダメだね」
しかし、いつもとは何か違う雰囲気なのも感じる。俺は涙をぬぐうとルシアーノを睨みつけた。
「ミヤ、日本男児は泣かない…そう僕のおじいさんから聞いたことあるよ。
なのにどうしてミヤ、君はそんなに泣くの。」
会って半年しか経っていないのに、ルシアーノの言葉は驚くほど日本語が上達していた。
「お前が、い、いなくなるからと…思ってさぁ。」
俺は地面にあぐらをかくと、少し恥かしくなって笑った。でも、出てくる言葉はどうしても嗚咽交じりになってしまう。
駄目だ。何で、こんなに泣けてくるんだ。顔を隠すように涙を拭くと「泣かないで」と肩を叩かれた。
「ミヤ。ミヤは日本の中で一番の友達だ」
そう言うと、ルシアーノは煙の消えた工場を指した。
「日本が不景気なのは知っていたよ。この小さな工場も、今日でとうとうつぶれてしまった」
意外な程、ルシアーノは淡々としていた。
「潰れたなんて、そんな。おまえ、これからどうするんだよ」
これからどうする。
そう言った瞬間、俺はハッと顔をあげた。ルシアーノは俺の顔を見てゆっくりと肯いた。
「君が思っている事と同じ」
「じゃあ…」
「そう、僕はブラジルに帰るよ」
きっぱりとそう言うと、ルシアーノは微笑んだ。
「向こうで僕の家族を助けないといけない。貯金も結構できたし、出来たら学校に行きたいと思うし、サッカーもやりたい」
最後の「サッカーをやりたい」という言葉は、一際力強いものを感じた。
きっとルシアーノは、今までもこうやって出会いと別れを繰り返してきているのだろう。
本当はアイツの方がずっと寂しいのかもしれない。でも、出来るだけその気持ちを出さないようにしているはず。
そう思えたのは、ルシアーノの笑顔がたまらなく優しいからだ。
「おまえ…偉いよ、ほんと」
俺に面と向って褒められたのが恥ずかしいのか、ルシアーノは手をひらひらと振りながら「違うよ」と笑った。
「えらくないよ、ミヤ。ぜんぜん、えらくない。
むこうの子供はこれがあたりまえ。神様が決めたこと、僕はただ、流れるように生きているだけ」
「でも、偉いよ。俺がおまえの立場だったらこんなにも頑張れなかったかもしれない」
俺は立ち上がってルシアーノの肩を叩いた。
「それを言うなら僕も同じだね」
ルシアーノは俺に背を向けると、俺のボールを使ってリフティングを始めた。
「ミヤ…君とこうして出会えていなかったら」
ボールがルシアーノの膝の上で小さくはねる。そしてルシアーノの周りをモンシロチョウがひらひらと飛ぶ。
「僕はもっと早くブラジルに帰っていただろうなあ……」
まだバスの中から俺を見つめていた頃のルシアーノを想い出す。あの頃のあいつは、何処か寂しい目をしていた。
ルシアーノも俺と同じで、人には言えない孤独を感じていた。だからこそ、俺たちはこんなにも気持ちが通じたのだろう。
「君に出会えて…本当に良かったよ」
ルシアーノの最後の声は震えていた。
俺達は、進む方向が変っていく。でも、友情は変わらない。
「ミヤ」
「ああ」
初めてボールを交わした時の様に、俺たちは堅い握手を交わした。
後書き…この部分はもっと丁寧に書きたかったな。今度もう一度書き直してみようと思います。
ちなみに今日は「鮎飯」を作りました。塩焼きした鮎の身をほぐして、
それを炊き込みご飯にまぜる。
好みでみょうがや生姜、三つ葉を散らしてできあがり。
鮎の香がする御飯です。おいしかったw
掌編小噺 「工場と異人の夏」 その6 2007.05.30
押入れを開けた瞬間、かびた匂いがした。この数十年、ずっと閉めっぱなしにしていたのだろう。
久しぶりに光が差し込んだ押入れの中は、鼠の糞や蜘蛛の巣が蔓延っている。
「うわ、すっげえ…」
体が何だか痒くなってくるのを感じながら、俺は上の段にあった古い柳行李を見つけた。
「爺ちゃん、これか?」
爺ちゃんが肯くのを合図に、俺はルシアーノと一緒にそっと柳行李下ろした。
埃をはらいながら、蓋をあけると色の変った新聞紙に何枚も包まれた一つの包みが出てきた。
俺達は発掘作業をするかの様な気持ちで、丁寧にその包みをほどくと、中から何枚か写真が出てきた。
おかっぱに切り揃えられた幼い子供の写真や、端午の節句の時にでもとったのか、
鎧人形の隣でポーズを決める小学生らしき龍爺ちゃんの姿があった。
「これじゃ、ないよなあ」
息が詰まるような暑さの中、俺達は汗をいっぱいに吹きながら、紅茶色に染まった何枚かの写真を見た。
龍爺ちゃんは窓をあけると布団の上でじっと座って俺たちの様子をじっと見守っている。
一枚一枚「これか?」と爺さんに見せるものの、爺さんは首を横に振るだけだ。
やっぱり、夢の中で語りかけてきた戦友の言葉にかなうものは無いんだよ、そう諦めかけていた時だった。
「あっ」
二人とも同時に声をあげ、そして黙って互いを見つめる。
「これ…」
「だな」
手元に残った最後の一枚を見つめて俺たちは肯いた。
「あったか、雅」
俺たちの気持ちが伝わったのか、それまで静かに目を閉じていた爺さんがぼそっと声をかけてきた。
「ああ」
爺さんの前に胡坐をかくと、俺はその一枚の写真を見せた。
「ああ、これだ…」
爺さんのほっとした声に、ルシアーノが「良かった」と手を叩いく。
部屋の隅にあった扇風機に手を伸ばすと、俺は自分の体にピタリと寄せた。
「知らなかったよ」
扇風機の風に自分の声がわらわらと揺れる。
「龍爺さん、サッカーやってたんだ」
「ふっ、まあな」
胸ポケットから煙草を出すと爺さんは煙草を口に咥えた。
「サッカーと言う言葉が昔からあったものではない。フットボールでもない、『蹴球』だ」
龍爺ちゃんは俺の手から写真を取ると懐かしそうにその写真をなでた。
「しゅうきゅう?」
「ああ。わしらは日本にその蹴球が入ってきた当時に始めた、まあいわば、先駆者の様な者じゃ。
まだ戦争の話が聞えてこない頃の話だ。手縫いの麻のボールを追って、わしらはおまえ達の様に毎日球を蹴っていた…」
何も無い、だだっぴろい空き地。其処は今から50年以上も前の俺たちの街の風景だった。
セピア色に染まる空の下で、龍爺ちゃんは俺の死んだ爺さんと、
そして戦争で先に亡くなってしまった「雅幸」と言う人と三人で肩を組んで立っていた。
「ほら、こいつ」
爺さんは写真の真ん中にいる少年を指した。
「こいつが、おまえの「雅」って名の元になった「雅幸」な。
おまえに似て、ちょっと無口で何考えているのか分らん奴だったが、球蹴ってる時だけは良い顔してやがった。
サイパンで死なんかったら、今でも球蹴ってるはずさ。なあ、そうだろ?雅やん…」
最後は写真の友人に話しかける様な口ぶりになりながら、爺さんは昔の事を振り返った。
その日、爺さんの家を後にした俺たちは、いつもの空き地へ向った。
爺さんの話を聞いたからなのかもしれない。何だか、無性にボールを触りたくなったのだ。
俺たちはずっと黙ったままボールリフティングを続けた。
戦争がどうだとか、平和がどうだとか、そういう事を考えるのはちょっと難しい。
でも、こんなふうに心を許せる仲間とボールを触っていられることは凄く幸せなんだ。
だから俺は「雅幸」という人の分も含めて、これからもサッカーを続けていくんだ、きっと。
そんな事を自分に言い聞かせながらボールをついてると、ルシアーノと目が合った。
俺の考えている事がちゃんと分かっている様で、アイツは黙って肯く。俺はそれだけで満ち足りた気持ちになった。
その後、龍爺ちゃんはすぐに仲間たちの所へ旅立った。
亡くなる前に、ちゃんと大切な想い出を振り返る事が出来て良かったと思う。
龍爺ちゃんはこれで本当に、仲間たちと思う存分に球を蹴れるんだ。寂しいけれど、俺はそう思うことで納得した。
そして龍爺ちゃんが亡くなってすぐに、その市営住宅は取り壊されたのだった…。
久しぶりに光が差し込んだ押入れの中は、鼠の糞や蜘蛛の巣が蔓延っている。
「うわ、すっげえ…」
体が何だか痒くなってくるのを感じながら、俺は上の段にあった古い柳行李を見つけた。
「爺ちゃん、これか?」
爺ちゃんが肯くのを合図に、俺はルシアーノと一緒にそっと柳行李下ろした。
埃をはらいながら、蓋をあけると色の変った新聞紙に何枚も包まれた一つの包みが出てきた。
俺達は発掘作業をするかの様な気持ちで、丁寧にその包みをほどくと、中から何枚か写真が出てきた。
おかっぱに切り揃えられた幼い子供の写真や、端午の節句の時にでもとったのか、
鎧人形の隣でポーズを決める小学生らしき龍爺ちゃんの姿があった。
「これじゃ、ないよなあ」
息が詰まるような暑さの中、俺達は汗をいっぱいに吹きながら、紅茶色に染まった何枚かの写真を見た。
龍爺ちゃんは窓をあけると布団の上でじっと座って俺たちの様子をじっと見守っている。
一枚一枚「これか?」と爺さんに見せるものの、爺さんは首を横に振るだけだ。
やっぱり、夢の中で語りかけてきた戦友の言葉にかなうものは無いんだよ、そう諦めかけていた時だった。
「あっ」
二人とも同時に声をあげ、そして黙って互いを見つめる。
「これ…」
「だな」
手元に残った最後の一枚を見つめて俺たちは肯いた。
「あったか、雅」
俺たちの気持ちが伝わったのか、それまで静かに目を閉じていた爺さんがぼそっと声をかけてきた。
「ああ」
爺さんの前に胡坐をかくと、俺はその一枚の写真を見せた。
「ああ、これだ…」
爺さんのほっとした声に、ルシアーノが「良かった」と手を叩いく。
部屋の隅にあった扇風機に手を伸ばすと、俺は自分の体にピタリと寄せた。
「知らなかったよ」
扇風機の風に自分の声がわらわらと揺れる。
「龍爺さん、サッカーやってたんだ」
「ふっ、まあな」
胸ポケットから煙草を出すと爺さんは煙草を口に咥えた。
「サッカーと言う言葉が昔からあったものではない。フットボールでもない、『蹴球』だ」
龍爺ちゃんは俺の手から写真を取ると懐かしそうにその写真をなでた。
「しゅうきゅう?」
「ああ。わしらは日本にその蹴球が入ってきた当時に始めた、まあいわば、先駆者の様な者じゃ。
まだ戦争の話が聞えてこない頃の話だ。手縫いの麻のボールを追って、わしらはおまえ達の様に毎日球を蹴っていた…」
何も無い、だだっぴろい空き地。其処は今から50年以上も前の俺たちの街の風景だった。
セピア色に染まる空の下で、龍爺ちゃんは俺の死んだ爺さんと、
そして戦争で先に亡くなってしまった「雅幸」と言う人と三人で肩を組んで立っていた。
「ほら、こいつ」
爺さんは写真の真ん中にいる少年を指した。
「こいつが、おまえの「雅」って名の元になった「雅幸」な。
おまえに似て、ちょっと無口で何考えているのか分らん奴だったが、球蹴ってる時だけは良い顔してやがった。
サイパンで死なんかったら、今でも球蹴ってるはずさ。なあ、そうだろ?雅やん…」
最後は写真の友人に話しかける様な口ぶりになりながら、爺さんは昔の事を振り返った。
その日、爺さんの家を後にした俺たちは、いつもの空き地へ向った。
爺さんの話を聞いたからなのかもしれない。何だか、無性にボールを触りたくなったのだ。
俺たちはずっと黙ったままボールリフティングを続けた。
戦争がどうだとか、平和がどうだとか、そういう事を考えるのはちょっと難しい。
でも、こんなふうに心を許せる仲間とボールを触っていられることは凄く幸せなんだ。
だから俺は「雅幸」という人の分も含めて、これからもサッカーを続けていくんだ、きっと。
そんな事を自分に言い聞かせながらボールをついてると、ルシアーノと目が合った。
俺の考えている事がちゃんと分かっている様で、アイツは黙って肯く。俺はそれだけで満ち足りた気持ちになった。
その後、龍爺ちゃんはすぐに仲間たちの所へ旅立った。
亡くなる前に、ちゃんと大切な想い出を振り返る事が出来て良かったと思う。
龍爺ちゃんはこれで本当に、仲間たちと思う存分に球を蹴れるんだ。寂しいけれど、俺はそう思うことで納得した。
そして龍爺ちゃんが亡くなってすぐに、その市営住宅は取り壊されたのだった…。
掌編小噺 「工場と異人の夏 その5」 2007.05.28
『お前さんは何でそうも、たまを蹴っているのかのぅ』
空き地から帰ってくる俺に、
いつもそう話し掛けてきてくれた近所の龍爺ちゃんが
終戦記念日の翌日に息を引き取った。
それも俺の家の店のトイレに入ったまま…そこで亡くなった。
血はつながっていなかったけれど、
死んだ実の爺ちゃんとは「戦友」で、俺を孫のように可愛がってくれたから
俺の家の店は3日間「喪中」にして店を休んだ。
「盆の時期に、龍爺ちゃんは一男爺さんの所に行っちゃったんだねえ」
母さんは少し涙ぐみながら、爺ちゃんがいつも暖めていたカウンターの席にコーヒーを供えた。
親父はいつもと同じく寡黙で、天井から吊られたテレビから高校野球の中継を見つめていた。
俺は龍爺ちゃんが亡くなる二日前にもらった写真を取り出し、その時の事を思い出した…。
ルシアーノが働いている工場が盆休みに入って、その日はルシアーノも俺ん家の店に来てコーヒーを飲んでいた。
むこうの方で、きっと本場の美味いコーヒー豆を挽いたコーヒーを飲んでいたと思うけど、「おとうさん、おいしい。ムイトボーンね」って言っては、うちの親父を喜ばせていた。
ルシアーノと俺の隣に龍爺ちゃんが座っていた。
その日はいつも読むスポーツ新聞にも手を出さず、今思うといつもとはちょっと違う爺ちゃんだった。
「なあ、ミヤよぉ」
節くれだったしわくちゃの手をこすりながら、龍爺ちゃんは眼を細めて俺を見た。

「昨日な…夢を見たんだ。」
「ああ?宝くじでもあたる夢でも見たの?」
龍爺ちゃんは「一億が当たったらどうしよう」としょっちゅう話をする所があるから、
またいつものが始まったな、ぐらいにしか感じなかった。
「いや、違う」
龍爺ちゃんの声はいつもより力強い声だった。
「サイパンで戦死した、昔の友人が出てきたんだ。ほれ、お前と同じ字の」
「雅幸?」
俺は龍爺ちゃんの戦友の名前の一文字をとって、自分の名前がつけられた事を思い出した。
「そうだ、雅幸だ。
あれと、お前の爺さんとわしは大の親友でのー、
必ず一緒に生きて帰ろうって約束したのに、
あいつだけ…帰ってこなかった」
終戦記念日が近くなると聞かされるこの親友の話が、この時が最後になるとは思わなかった。
「……時々夢の中に雅幸は出てきた。
お前ぐらいの時だ、恋をしたり夢について語り合った頃の想い出が夢の中に出てくる。
しかし、昨日見た夢は…少し違っていた。
雅幸の大切な写真を見つけて欲しいと言ってな…」
「たいせつな…しゃしん?」
それまで大人しく聞いていたルシアーノが口を開いた。
龍爺ちゃんは深く肯いた。
「ああ、確かに写真と聞こえた。あいつと撮った写真は殆ど戦争で燃えてしまった。
残っているものは、ほんの数枚わしの家の押し入れの中の柳行李に入れてしまってあるんだが、
わしには探す事が無理じゃ。このとうり、あんまり眼が見えんでの」
龍爺ちゃんは、戦争でつぶれた左眼を押さえながら弱々しく笑った。
そして、俺とルシアーノは爺ちゃんの大切な写真を探すのを手伝ったのである。
龍爺ちゃんは市営の小さな住宅に住んでいた。
俺の家の喫茶店は、俺が生まれるよりずっと前の昭和40年から開店した。親父はまだ工場で働いていて結婚もしていなかった。
死んだ実の一男爺さんが店のマスターだった。店の名前を「メモリー」と付けたのも戦死した親友の想い出を忘れない為にと、
生き残った二人が名前を付けた。
その時から殆ど変る事のない姿でこの店はがんばっていた。
一度、一男爺さんの寝煙草が原因でボヤを起こして、ちょっと燃えた所があるけれど殆ど当時のままだ。
そして、海岸線をはさんで真向かいの方に、同じくらい古い市営住宅が並んでいる。
老朽化が進み、街の市制活性化と近くに大きな道路を作る計画とかで、もうすぐこの住宅も取り壊される予定になっていた。
早期に転居を決めた人は優先的に市街地にできたマンションに住める事になっていたんだけど、
この龍爺ちゃんはいつまでもそこに居座っていた。
ずっと独身で身寄りもなく、たよると言ったら近所に俺ん家しかなかったからかもしれない。
殆ど掃除をしていない爺ちゃんの家は、あまりにも寂しく、一人身の孤独を感じた。
「ぼくの国は、びんぼうだ。でもさびしい人はいない」
ルシアーノがボソリと呟いた。
俺は黙って、押し入れを開けた。
後書き…少し間があきました。もうすぐ6月。ぼちぼちビワやさくらんぼが食べたくなってきました。
今日は、何か果物を買って帰ろう。
掌編小噺 「工場と異人の夏」その4 2007.05.18
ルシアーノは、日系3世のブラジル人。
ルシアーノの上に3つ年上の双子の兄ちゃんと姉ちゃんがいて、3人で去年の秋から就労ピザを使ってこの街に来たと言う。
糸田と言うのは、ルシアーノのお爺さんの姓からきている。
太平洋戦争が起こる前に沖縄から渡ったお爺さんと、現地で巡り合った女性との間に生まれたのが、ルシアーノの父。
日本語は思ったより喋るのが上手だけど、殆ど書く事が出来ない。
片仮名がなんとか分かるから、俺はノートに日本語をローマ字で書いて、ついでに片仮名も書き添えて日本語を伝えた。
代わりにルシアーノは、俺にポルトガル語を教えてくれた。
でも、ぜんぜん覚えないんだな、俺は。ルシアーノは俺が教えた言葉をどんどん覚えていく。
俺とは頭のデキが違うのかもしれない。
話を聞くと、ルシアーノが住んでいるブラジルは貧富の差がかなりあって、
貧しい家の子供はお金の為に国を出て、出稼ぎに行くのは当たり前の事らしい。
彼は俺より同じ年で、本来なら学校に行くはずなんだけどこうやって週の3日を夜勤にあてている。
この年での夜勤は違法だと知っていても、ルシアーノは年を偽って働いている。
むこうで名門クラブチームのテストも受けてみたいとは言ってたけど、現実は生活費を家に送る事で精一杯なのだ。
だけど、どんなに夜勤明けで疲れていても、俺とサッカーをやっているのが一番楽しいと言って、
ルシアーノは仕事が終わるたびに俺のところへ来るようになった。
俺もルシアーノに会えるのが、すごく待ち遠しかった。
初めてパスを交わした時に感じたとうり、ルシアーノのサッカーは日本人の俺にはもっていないセンスを感じた。
ルシアーノはドリブルを最も得意としている。
等間隔に置いたペットボトルのポイントの間を、物凄く細かいボールタッチで、しかも神業的な速さで抜けていく。
プロの選手の、それもドリブルを得意とする選手の足元を見ると、ものすごく早くドリブルをしているのに
ボールがピタリと吸い付いてみえる、そんな高度の技を持っていた。
「みんな、やるよ。ミヤも、やれば、できるよ」
そう言って、ルシアーノは静かに笑う。
爪先が少し破れたサッカーシューズから、汚れた足が覗いて見えた。
ルシアーノは遠い母国の大地で沢山の仲間と一緒に、たった一つのボールを求めて裸足で走り回っていたんだ。
俺には考えられない状況の中で、純粋にボールを追っていたんだ。
アイツのきれいなドリブルやパスはそこから生まれてきたんだと思った。
ルシアーノみたいなサッカーがしたい。
俺は、ルシアーノの後をついてアイツのドリブルをイメージしながらボールを追った。
楽しかった。
日曜日になると、ルシアーノと同じく出稼ぎにこっちに来たブラジル人の少年が空き地に沢山集まった。
ルシアーノの友達だと言うのもいれば、ウワサを聞いて隣の町から歩いてきた奴もいた。
日系のブラジル人もいれば、生粋のブラジル人もいた。
はじめは5人ぐらいでやっていたのが、だんだん仲間が増えて2チームぐらい作れる程賑わってきた。
夏草でますますボーボーになった空き地を、俺とルシアーノは少しづつ整備を始めた。
頑固に地中深く根をはやした雑草を引き抜き、大きな穴は埋めた。
ルシアーノの兄ちゃんがどこかの工事現場から「虎柵」や「三角コーン」をこっそりともってきた。
虎柵はゴールになって、コーンがコーナーになった。
やがて、ルシアーノと同じ工場で働いている日本人の兄ちゃん達も加わりはじめ、たまに「日本」対「ブラジル」戦をやった事もあった。
ブラジル人だからと言って、皆が上手いわけではなかった。
結構、当たりがきついし反則もする。
PKになると、何か「呪文」でも唱えながら相手のボールにキスをしやがる。「シュート、ハズセ」ってさ。
審判になった奴も目茶苦茶な笛を吹く奴もいて、ミニゲームの最中にもみくちゃの喧嘩になった事も少なくない。
日本語と向こうの言葉が激しく飛び交い、
日頃のたまっていた不満や思いをぶつけ合うかの様に、俺達は乱闘した。
そしてほとぼりが冷めると、何もなかったようにボールをまわした。
数ヶ月前まで、たった一人でボールをついていた空き地は、ストリートサッカーに興じる、異人達のグランドへ変わっていった……。
(後書き)…今回書いた部分、本当はもっともっと色々なエピソードを盛り込みたかったのですが、そうすると掌編の枠を越えてしまうので、あっさりと書きました。いつか違う形で、この部分をしっかりと書いてみたいと思います。
そういえば、「バッテリー」とか「大きく振りかぶって」とか一昔前は「ドカベン」とか「タッチ」とか「野球狂の詩」などなど、(あ、巨人の星を忘れてたw)野球物の話って沢山あるんだけど、
サッカーだと「キャプつば(キャプテン翼)」ぐらいしか思い当たらない。漫画じゃなくて、小説となると…あるのかな?
誰か、サッカーを題材にした小説、書いて下さい。それも、読むと酸っぱい気持ちになるような「せーしゅん物」を。
さて、ここまでが話の前編。次回からは後編へ。ではでは
掌編小噺「工場と異人の夏」 その3 2007.05.16
「アイツが、来た…!」
体中の汗が一気に吹き出してくるのを感じる。紺色の作業服と深めの帽子を被った少年は、俺を見ていた。
まだ花を咲かせていないタンポポを踏みしめながら、少年は俺の何倍も細かいボールリフティングをしていた。
体で音楽を奏でるようにリズムを取って、今まで見た事も無いような絶妙なバランスでボールをつく。
膝下から、一気に頭。そして腿。
大きくボールを空に上げた瞬間にくるりと体を反転させて、そこにボールが落ちてくるのをまるで
知っていたかの様に、また足の甲でつく。
俺もアイツのボールリフティングに対抗するかの様に、一定の距離を保ちながらボールをつき始めた。
名前は?
家は何処なんだ?
何処でそのサッカーを覚えてきたんだ?
何処のチームにいるんだ?
聞きたい事が山程あったけど、俺は夢中でアイツの「音楽」に合わせるかの様にボールをついた。
うねりだ…。音のうねりを感じる。
俺は眼を瞑ると、やわらかな春の光を浴びながら、サンバのリズムを感じた。
これだ!きっとこれなんだ!
春の芽吹きを感じるような躍動感を感じる。アイツのサッカーはサンバなんだ。
何か、すげえ気持ちいいよ。

俺は瞑っていた眼を開けた。
一瞬、何も見えなかったけれどそこにはアイツのくったくのない笑顔を感じた。
笑っている。俺にすげえいい顔をして笑っている。
少し浅黒い肌、ラテン系の表情豊かな瞳、大きくうねった髪、両耳につけたピアス、素足から覗くカナリア色の「ミサンガ」。
少年が俺の前まで近付いてきた瞬間、俺は自分のボールから離れて体を伸ばした。
アイツからの「会話」が来ると思った。アイツは「ほら、いくぞ」って眼で伝えてきた。
よしっ、俺は肯いた。緊張が溶けて、久しぶりに笑った。
来い!お前のボール、どんなのでも受けてやるよ。
アイツは俺の笑顔を確認すると、細かくついていたボールをポーンとやわらかく宙に浮かばせた。
ふわり。
暖かい春の空に向かってボールは大きく弧を描いた。
黄砂で少し黄ばんだ空から、アイツの放ったボールは時間を止める様にゆっくりと俺をめざして落ちてくる。
トン!
俺の腿の上でボールはやわらかく弾んだ。もう一度俺の上で弾んだボールを俺は甲で受け止めた。
ボールは拾ってきた子猫の様に大人しく俺の足の上で落ち着いた。
すげえ、優しいパスだと思った。
見た感じどこかの国の人間だと思ったけど、言葉を交わさなくてもアイツはいい奴だと思った。
俺はボールを地面に置くと、左足の中側を使ってアイツに負けないくらい優しい気持ちでパスを出した。
びしっと、俺の足がボールの横っ腹をつき、矢の様にボールがアイツを目掛けて飛んでいく。
でもそれは攻撃的じゃない。アイツの足元まで近付いたらスッと優しく着地する。
俺がいつも頭の中に思い描いていた、誰にでも優しいパスを初めて相手に送ってみた。
俺の送り出したパスは、あいつに無事届いた。
体中で喜びを現すと、アイツはもっと体がしびれるような芸術的なパスを送ってきた。
荒れはてた空き地が、ワールドカップのスタジアムの様な感じがした。
「オマエのパス、すげえいいよ!!」
たまらなくなって、俺はとうとう声をかけた。言葉が伝わなくてもいい。俺の感動を伝えるまでだ。
アイツは俺のパスを受けると、すげえ勢いでドリブルした。
そして、俺の前に来ると息を弾ませながら俺に手を差し出した。
何も言わずに俺はアイツの手を握り返した。アイツも俺の手を強く握り返してきた。
これが俺の初めての親友、「ルシアーノ・デアンドロ・糸田」との出会いだった…。
(後書き)…サッカーな映画と言えば、「勝利への脱出」。スタローン主演でしたな。何と言ってもペレ!
ああ、DVDで見たくなってきた。
掌編小噺 「工場と異人の夏」その2 2007.05.15
「ほら、雅(みやび)」
「んあ?」
「いつまでぼーっとしてる」
「あ、ああ…」
「食べ終わったら手伝ってほしい事があるからね」
「えっ…」
「えっ、じゃないでしょう?もうすぐ豆屋が来るから、来たらお父さんと一緒に豆を倉庫に運んでよ」
「わかりました…よ」
赤茶色のツールに浅く腰をかけ、カウンターに肘をつきながら、俺は常連客に混ざって朝食のトーストに噛り付いていた。
喫茶店を営んでいる俺の家は、古い木造の二階建てで、一階を店舗にして二階に家族3人で暮らしている。
朝早くから店をあける為に、物心ついた時から俺の朝飯は店のパンとコーヒーだ。
たまに茹でた卵をつける時があるが、食っている時間は殆どないから、コーヒーしか飲まない時もある。
“ネギを刻む音で目が覚める”って話しを聞いた事があるけど、俺の家では、まずそんな事はありえない。
まだ夜も明けぬうちから、親父は豆を炒り始める。焙煎機の前に立って、豆が炒られていく様子をじっと見守っている。
今日客に出す分の豆を朝一番に引いて、その日の内に客に出し切る。炒った豆が切れたら、朝だろうか昼だろうが親父は店を閉めてしまう。随分偏屈なところがあるけれど、親父の淹れる珈琲は美味いと評判で、カウンター8席しかない小さな店は朝から満席だ。
トイレに一番近い端側の席があいている時だけ、俺はそこに座って食事をとる事を許されるのだ。

「ミヤ」
煙草で歯が真っ黒な近所に住む『龍爺ちゃん』が、真っ黒いコーヒーの中にパンのみみをどっぷりと浸しながら俺の名前を呼んでいる。
「ああ」
「今日も…球、蹴ってきたんか?」
「ああ」
「そーか。今日もミヤは球蹴ってきたんだ」
『たま、けってきたんか』
これがこの龍爺ちゃん(たつ爺ちゃん)の、俺への「おはよう」みたいなものだ。
そして俺の「ああ」も、「おはよう」みたいなもの。
龍爺ちゃんの名前は本名『加藤龍蔵』。
俺の死んだ爺さん『平賀一男』とは子供の時からの親友だった。
今じゃあ少しボケちゃって、耳も眼も大分遠くなっちゃったけれど、囲碁をやらせるとこの町内では右に出る者がいないくらい、強いらしい。
俺がこどもの時は、昔理容師だった経験を生かしてよく散髪してもらったものだ。
今では街から生活保護を受けて、俺ん家の近くで一人暮らしをしている。
歯なんかほどんど無いけれど、いつも俺ん家でモーニングを食べに来るのだ。
龍爺ちゃんはスポーツ新聞の中の釣り情報を見ながら、しゃがれた声で話しを続ける。
「わしはミヤがちーさい頃から知っているが、ひとーつだけ、分からん事があるな」
「何が?」
自分の実の爺さんでもない、あかの他人なのに俺の事が一つしか分からないなんて、龍爺さん何言ってんだか。
「なあ、ミヤ。お前さんは何でそうも、毎日たまを蹴っているのかの。たま蹴る以外にも、お前さんの年だったらやるべき事は幾らでもあるはず。
勉学もしかり、女の嗜みもしかり。ま、女の事はどうでも良い。
じゃども、おまえさんにはたま蹴る事しか無い。
それは何故かと問うているわけじゃが…おぬし答えられるかの」
そう言いながら老眼鏡を掛け直し、『ワカサギ大漁。河口湖』と書いてある記事に見入っていた。
何で、球けっているかって?
何でだろう。好きだからなのか?それだけじゃないかもしれない。
物心ついた時から、俺はボールを触っていた。
別にオヤジが薦めたわけでもなく、俺はボールを触る事が当たり前の様に、ボールを触った。
ボールならなんでもいいわけではなく、サッカーボールじゃないと駄目だった。
テレビでサッカーを知るよりも先に、俺はサッカーを知っていた様に感じた。
一流の選手になりたいとか、世界に出たいとは思わなかった。
ただ、がむしゃらに…ボールが触りたかったのである。
「俺もよくわかんないっす」
そう言って、俺は笑った。そして、苦酸っぱいコーヒーに牛乳をドボドボと足して飲んだ。
パンも殆ど噛まずにコーヒーで流しこむと、俺は鞄とサッカーバックをかついだ。
「じゃ、行ってくるから」
豆屋が来るまでに、まだ少し時間がある。
店の前は長い海岸が続いている。砂浜の上でボールを転がしたくなった俺は、母親に呼び止められる前に店を出て行った。
朝のボールリフティングは、それからもずっと続いた。
小雨の日にはフード付きのトレーナーを着た。
風が強い日は、別の遊びを考えてみた。
ペットボトルに水を入れて、間隔をつけて何本か置くと、
そこをドリブルで抜く遊びを始めた。
ゲームの時の、ディフェンスを抜くようなイメージを作るのだ。
勿論、本物と違ってペットボトルは全く動かないけれど、なるべく早く無駄の無いタッチで抜けてみようと思った。
俺の「一人遊び」は、飽きる事無く続く。
そして必ず7時を過ぎると、バスの中から俺を見つめる「アイツ」の視線を感じた。
『俺に何かあるなら、話かけてこい』
俺は信号の様に、あいつにボールを見せながら念じた。
話はしなくても、ずっと前からアイツとは語り合っている、そんな気がしてきた。
そして、工場の奥の雑木林の緑が柔らかい萌黄色になった春の朝、それは突然俺の前で起きた。
いつもの様に、ボールをついていた。
明日から新学期という日だった。
なかなか学校で自分の居場所を見つける事も、
その場所を探そうとする気持ちも起こらずに進級した事を少し反省しながらボールをついていた。
俺は学校の中では、あまり目立たない方だった。
学校の休みの時間は、屋上でボーっとしていた。
時々声をかけてくれる奴はいるが、差し障りのない会話をするぐらいで、
休みの日に家まで遊びに来る奴はいなかった。
そういう事に対して、あまり孤独や疎外感を感じないわけでも無かったけれど、その事についてあまり深く考えたくはなかった。
ただサッカーができればいい、そう思っていた。
しかし、ある時ふと、そういう自分がたまらなく嫌に思うことがある。
本当に俺は、こんなふうでいいのだろうか。
このまま、大人になってしまうのだろうか。
とりあえずは、少しは話ができる友達を作ろうかと思った。
まずは始めが肝心だ。
クラス活動の一番始めに行う自己紹介で、何を言おうか考えていた時に、工場からゆっくりとバスが出てきた。
いつもの様にアイツの事を意識しながら、俺は膝下で細かくリフティングを続けた。
「…あれ?」
いつもいるはずの窓の位置にアイツの顔が無いのを感じた瞬間、俺の動きはピタリと止まった。
休んだのか?
病気か?
それとも、仕事を辞めちゃったのか?
いろいろな疑問が次から次へと頭の中に湧き、俺はその時心の底からがっかりしていたのを感じた。
「…のやろう!」
感情任せにボールを乱暴に地面にたたきつけた。
俺の荒っぽい扱いを避けるかの様に、ボールは俺の眼の高さを越えて、大きく弾んだ。
その弾む勢いを足裏のトラップで抑えようと、ゆっくりと左足を上げた時だ、
「トントントントント・トントン」と、細かくボールをつく音が俺の背中から聞えてきた。
「マジ…かよ」
冬枯れたススキの草むらを分ける様に、一人の少年がボールをつきながら俺の方に向かって歩いている。
(第二話・後書き)
昔は自分もけっこうボールつき(リフティング)ができたのだけど、
最近はさっぱり。
少し続けてやっていると、もう疲れちゃう。
あと、子供の時。
「全国ボールリフティング大会」と言うのが家の近くでやってて、参加しに行ったら、審査員の中にラモスとセルジオ越後氏がいたのを覚えてる。
審査は1グループ10人ぐらいで同時にリフティングをはじめて、落としたら負けというルール。子供の時から「本番に弱い」カオポンは、はじめてから数秒もしないうちに脱落。(とほほ)
当時同じクラスの男の子が、一人凄く上手い子がいて両氏に褒められてた。サッカーが目茶目茶上手かったKくん。今もサッカー好きかなあ。
「んあ?」
「いつまでぼーっとしてる」
「あ、ああ…」
「食べ終わったら手伝ってほしい事があるからね」
「えっ…」
「えっ、じゃないでしょう?もうすぐ豆屋が来るから、来たらお父さんと一緒に豆を倉庫に運んでよ」
「わかりました…よ」
赤茶色のツールに浅く腰をかけ、カウンターに肘をつきながら、俺は常連客に混ざって朝食のトーストに噛り付いていた。
喫茶店を営んでいる俺の家は、古い木造の二階建てで、一階を店舗にして二階に家族3人で暮らしている。
朝早くから店をあける為に、物心ついた時から俺の朝飯は店のパンとコーヒーだ。
たまに茹でた卵をつける時があるが、食っている時間は殆どないから、コーヒーしか飲まない時もある。
“ネギを刻む音で目が覚める”って話しを聞いた事があるけど、俺の家では、まずそんな事はありえない。
まだ夜も明けぬうちから、親父は豆を炒り始める。焙煎機の前に立って、豆が炒られていく様子をじっと見守っている。
今日客に出す分の豆を朝一番に引いて、その日の内に客に出し切る。炒った豆が切れたら、朝だろうか昼だろうが親父は店を閉めてしまう。随分偏屈なところがあるけれど、親父の淹れる珈琲は美味いと評判で、カウンター8席しかない小さな店は朝から満席だ。
トイレに一番近い端側の席があいている時だけ、俺はそこに座って食事をとる事を許されるのだ。

「ミヤ」
煙草で歯が真っ黒な近所に住む『龍爺ちゃん』が、真っ黒いコーヒーの中にパンのみみをどっぷりと浸しながら俺の名前を呼んでいる。
「ああ」
「今日も…球、蹴ってきたんか?」
「ああ」
「そーか。今日もミヤは球蹴ってきたんだ」
『たま、けってきたんか』
これがこの龍爺ちゃん(たつ爺ちゃん)の、俺への「おはよう」みたいなものだ。
そして俺の「ああ」も、「おはよう」みたいなもの。
龍爺ちゃんの名前は本名『加藤龍蔵』。
俺の死んだ爺さん『平賀一男』とは子供の時からの親友だった。
今じゃあ少しボケちゃって、耳も眼も大分遠くなっちゃったけれど、囲碁をやらせるとこの町内では右に出る者がいないくらい、強いらしい。
俺がこどもの時は、昔理容師だった経験を生かしてよく散髪してもらったものだ。
今では街から生活保護を受けて、俺ん家の近くで一人暮らしをしている。
歯なんかほどんど無いけれど、いつも俺ん家でモーニングを食べに来るのだ。
龍爺ちゃんはスポーツ新聞の中の釣り情報を見ながら、しゃがれた声で話しを続ける。
「わしはミヤがちーさい頃から知っているが、ひとーつだけ、分からん事があるな」
「何が?」
自分の実の爺さんでもない、あかの他人なのに俺の事が一つしか分からないなんて、龍爺さん何言ってんだか。
「なあ、ミヤ。お前さんは何でそうも、毎日たまを蹴っているのかの。たま蹴る以外にも、お前さんの年だったらやるべき事は幾らでもあるはず。
勉学もしかり、女の嗜みもしかり。ま、女の事はどうでも良い。
じゃども、おまえさんにはたま蹴る事しか無い。
それは何故かと問うているわけじゃが…おぬし答えられるかの」
そう言いながら老眼鏡を掛け直し、『ワカサギ大漁。河口湖』と書いてある記事に見入っていた。
何で、球けっているかって?
何でだろう。好きだからなのか?それだけじゃないかもしれない。
物心ついた時から、俺はボールを触っていた。
別にオヤジが薦めたわけでもなく、俺はボールを触る事が当たり前の様に、ボールを触った。
ボールならなんでもいいわけではなく、サッカーボールじゃないと駄目だった。
テレビでサッカーを知るよりも先に、俺はサッカーを知っていた様に感じた。
一流の選手になりたいとか、世界に出たいとは思わなかった。
ただ、がむしゃらに…ボールが触りたかったのである。
「俺もよくわかんないっす」
そう言って、俺は笑った。そして、苦酸っぱいコーヒーに牛乳をドボドボと足して飲んだ。
パンも殆ど噛まずにコーヒーで流しこむと、俺は鞄とサッカーバックをかついだ。
「じゃ、行ってくるから」
豆屋が来るまでに、まだ少し時間がある。
店の前は長い海岸が続いている。砂浜の上でボールを転がしたくなった俺は、母親に呼び止められる前に店を出て行った。
朝のボールリフティングは、それからもずっと続いた。
小雨の日にはフード付きのトレーナーを着た。
風が強い日は、別の遊びを考えてみた。
ペットボトルに水を入れて、間隔をつけて何本か置くと、
そこをドリブルで抜く遊びを始めた。
ゲームの時の、ディフェンスを抜くようなイメージを作るのだ。
勿論、本物と違ってペットボトルは全く動かないけれど、なるべく早く無駄の無いタッチで抜けてみようと思った。
俺の「一人遊び」は、飽きる事無く続く。
そして必ず7時を過ぎると、バスの中から俺を見つめる「アイツ」の視線を感じた。
『俺に何かあるなら、話かけてこい』
俺は信号の様に、あいつにボールを見せながら念じた。
話はしなくても、ずっと前からアイツとは語り合っている、そんな気がしてきた。
そして、工場の奥の雑木林の緑が柔らかい萌黄色になった春の朝、それは突然俺の前で起きた。
いつもの様に、ボールをついていた。
明日から新学期という日だった。
なかなか学校で自分の居場所を見つける事も、
その場所を探そうとする気持ちも起こらずに進級した事を少し反省しながらボールをついていた。
俺は学校の中では、あまり目立たない方だった。
学校の休みの時間は、屋上でボーっとしていた。
時々声をかけてくれる奴はいるが、差し障りのない会話をするぐらいで、
休みの日に家まで遊びに来る奴はいなかった。
そういう事に対して、あまり孤独や疎外感を感じないわけでも無かったけれど、その事についてあまり深く考えたくはなかった。
ただサッカーができればいい、そう思っていた。
しかし、ある時ふと、そういう自分がたまらなく嫌に思うことがある。
本当に俺は、こんなふうでいいのだろうか。
このまま、大人になってしまうのだろうか。
とりあえずは、少しは話ができる友達を作ろうかと思った。
まずは始めが肝心だ。
クラス活動の一番始めに行う自己紹介で、何を言おうか考えていた時に、工場からゆっくりとバスが出てきた。
いつもの様にアイツの事を意識しながら、俺は膝下で細かくリフティングを続けた。
「…あれ?」
いつもいるはずの窓の位置にアイツの顔が無いのを感じた瞬間、俺の動きはピタリと止まった。
休んだのか?
病気か?
それとも、仕事を辞めちゃったのか?
いろいろな疑問が次から次へと頭の中に湧き、俺はその時心の底からがっかりしていたのを感じた。
「…のやろう!」
感情任せにボールを乱暴に地面にたたきつけた。
俺の荒っぽい扱いを避けるかの様に、ボールは俺の眼の高さを越えて、大きく弾んだ。
その弾む勢いを足裏のトラップで抑えようと、ゆっくりと左足を上げた時だ、
「トントントントント・トントン」と、細かくボールをつく音が俺の背中から聞えてきた。
「マジ…かよ」
冬枯れたススキの草むらを分ける様に、一人の少年がボールをつきながら俺の方に向かって歩いている。
(第二話・後書き)
昔は自分もけっこうボールつき(リフティング)ができたのだけど、
最近はさっぱり。
少し続けてやっていると、もう疲れちゃう。
あと、子供の時。
「全国ボールリフティング大会」と言うのが家の近くでやってて、参加しに行ったら、審査員の中にラモスとセルジオ越後氏がいたのを覚えてる。
審査は1グループ10人ぐらいで同時にリフティングをはじめて、落としたら負けというルール。子供の時から「本番に弱い」カオポンは、はじめてから数秒もしないうちに脱落。(とほほ)
当時同じクラスの男の子が、一人凄く上手い子がいて両氏に褒められてた。サッカーが目茶目茶上手かったKくん。今もサッカー好きかなあ。
掌編小噺 「工場と異人の夏」 その1 2007.05.14
朝日が登ってまだあまり空気があったまっていない頃、
俺はいつもベットの上でサッカーボールを触っている。
はじめは、五角形と六角形の形の皮が継ぎ接ぎされた糸目を指でなぞるって、
次は拳で何度か表面を叩いて空気が充分に入っているのを確かめる。
その後すぐに「そいつ」を鞄に詰め込んで、ついでに履き慣れた靴もぶち込んで家を出る。
出かける所はいつも同じ所。
自転車で海岸沿いの道を、朝日が昇るのとは反対の方角へ、
ただひたすら漕いでいく。
頬を撫でる強い海風は身を切るような冷たさで、どれだけ漕いでも体は温まらない。
そのうち耳たぶが寒さで傷みを感じ始めた頃にやっと海風は静まり、背に受けた朝日に温もりを感じ始める。
海から少し離れ、山に向かう細い道を進む。
霜柱で少しだけ持ち上げられた地面をギュッと轍をつける様に踏みしめていく。
そして、一日中煙突から煙が消える事の無い工場の前に広がる空き地の前で、俺は自転車を止める。
工場の中から時々、業務連絡の様な放送が聞こえる。
何を作っているのか分からないけど、一日中、機械が動く重い音が聞こえる。
工場の周りは俺の背の高さ位のコンクリートの外壁で囲まれ、更にその上を有刺鉄線が張り巡らされていた。
俺の高校の体育館ぐらいの広さの工場が二棟あって、その奥には赤い煉瓦の壁で作られた建物が見える。
子供の時からこの空き地で遊んでいたけど、有刺鉄線に囲まれた古い工場を見るたびに、どこか薄気味悪さを感じがした。
工場の周辺には家も建物もなく、濃い緑色の雑木林が山に向かって続いている。
俺が生まれる前からこの工場はあって、工場の前の空き地も昔からあったらしい。10年以上も建物も立たず放ったらかしの状態だったから、ものすごく地面は荒れている。
子供の時に友達と掘った落とし穴は、長い時間を経て雨が降るたびに穴が深くなっていて、ある時ふと覗いてみたら、使えなくなったテレビとくたびれたソファーが穴の中に捨てられていた。
キックベースや缶けりをやった跡は、いつの間にか消えて、そこには雑草が生い茂り、秋には群生したセイタカアワダチソウがまっ黄色の花を咲かせて、風に揺れていた。
きれいに整地したら、サッカーコートが2面ぐらいとれそうな荒れ放題の空き地だ。
俺はその空き地で、いつも一人でボールを触っている……。

サッカー用のトレーニングシューズに履き替えると、軽く体を準備運動をする。
膝の靭帯をゆっくりと息を吐きながら伸ばしていく。
吐く息が真っ白になる冬の朝、かじかんだ体を時間をかけて暖めると俺はボールを出す。
始めにボールを腰の高さまで持ち上げると、俺はそこから手を離す。
重力の方向に向かってボールが地面に落ちる寸前に、俺の足先の甲で受け止める。
やわらかく、やわらかく。
一瞬、吸盤の様にボールは吸い付いたかと思うと、俺の甲をジャンプ台にしてふんわりと浮かび上がる。
膝の高さまで浮かぶと、またボールは俺の甲に落ちてくる。
地面には落ちない!
俺の甲、膝、腿、肩、背中、頭…太陽の周りを周る地球みたいに、ボールは俺の体を跳ねながら周るんだ。
ボールリフティング。
サッカーの中で俺が一番楽しいと思える遊び。
ついた数をカウントしながら時々眼を瞑る。
荒れ果てた空き地が一瞬、南米の子供達がはだしでボールを追い求めて乾いた大地の中で走り回っている様な幻想に囚われる。
小さな子供が人形を使って自分の世界に入る様に、俺はボールを使って自分の世界に入り込んでしまうのかもしれない。
ボールをついた数が1000を超えると、体中が熱くなってくる。
少し膝が疲れてくるから、一旦ボールを高く上げて俺は額に乗せる。
体の全てのバランスを保ちながら、時々首を横にずらしながら落ちてこないように額の上でキープする。
はたから見たら、何処かの修行僧の荒行に見えるかもしれないけど、たいした事ではないんだ。
ボールの皮を肌で感じながら、その向こうの突き抜けた青空を覗いてみる。そこから見える景色は結構面白い。
曲芸の様な遊びに興じている間、太陽はゆっくりと高く上がる。
やがて有刺鉄線の向こうから、7時の時報と共にサイレンが鳴る。
「夜勤の皆さん、今日の労働は終了しました。皆さんお疲れ様でした。
各自持ち場の片づけ、点検が終了次第退社の準備を行って下さい。
なお、帰りのマイクロバスは7時10分に発車します。業務連絡…」
決まって7時には、社内放送が辺りを響かせる。
そして、少したつと夜勤明けでぐったりと疲れた従業員を乗せた古いマイクロバスがゆらゆらと揺れながら、舗装されていない道を街に向かってのろのろと走り出す。俺はバスが空き地の横を通る時だけ、額に乗せたボールを一度だけ地面に落とす。そして、また膝より下の高さでリフティングをしながら、バスが通り過ぎるのをじっと見つめている。
いた…!
今日も「アイツ」が俺を見ている。
すし詰めになった車内の中、曇ったガラス窓から俺より少し背の低い、少年の瞳が俺を見つめている。
水蒸気で曇った窓を少し浅黒い肌のこぶしで拭きながら、大きな瞳で何か訴えるかの様な表情で俺を見ている。
「なんなんだよ、アイツ」
俺はボソリと呟きながら、ボールをついた。
マイクロバスが俺の前を過ぎ去り小さくなっていくと、俺の周りで小犬の様にまとわりついていたボールは、
急にぜんまいが切れたようにポトン…と地面に落ちた。
俺はゆっくりと落ちたボールを拾いあげると鞄にしまい、靴を履き替えて自転車のペダルを漕いだ…。
第一話後書き…日曜日から連載すると言っておきながら、結局月曜日に。(とほほ)
昨日は母の日と言う事で、母さんと家人と一緒に市内で夕食を一緒に。
母の誕生日も近いので、本当は鞄でも縫ってプレゼントしようかと思っていたのに、何にも用意できず。
それでも母は満足そうだったので、良かった良かった。
さて小噺が始まりました。
稚拙な文章で読みづらいかと思います。
よろしければ、話の続きにお付き合いください。
俺はいつもベットの上でサッカーボールを触っている。
はじめは、五角形と六角形の形の皮が継ぎ接ぎされた糸目を指でなぞるって、
次は拳で何度か表面を叩いて空気が充分に入っているのを確かめる。
その後すぐに「そいつ」を鞄に詰め込んで、ついでに履き慣れた靴もぶち込んで家を出る。
出かける所はいつも同じ所。
自転車で海岸沿いの道を、朝日が昇るのとは反対の方角へ、
ただひたすら漕いでいく。
頬を撫でる強い海風は身を切るような冷たさで、どれだけ漕いでも体は温まらない。
そのうち耳たぶが寒さで傷みを感じ始めた頃にやっと海風は静まり、背に受けた朝日に温もりを感じ始める。
海から少し離れ、山に向かう細い道を進む。
霜柱で少しだけ持ち上げられた地面をギュッと轍をつける様に踏みしめていく。
そして、一日中煙突から煙が消える事の無い工場の前に広がる空き地の前で、俺は自転車を止める。
工場の中から時々、業務連絡の様な放送が聞こえる。
何を作っているのか分からないけど、一日中、機械が動く重い音が聞こえる。
工場の周りは俺の背の高さ位のコンクリートの外壁で囲まれ、更にその上を有刺鉄線が張り巡らされていた。
俺の高校の体育館ぐらいの広さの工場が二棟あって、その奥には赤い煉瓦の壁で作られた建物が見える。
子供の時からこの空き地で遊んでいたけど、有刺鉄線に囲まれた古い工場を見るたびに、どこか薄気味悪さを感じがした。
工場の周辺には家も建物もなく、濃い緑色の雑木林が山に向かって続いている。
俺が生まれる前からこの工場はあって、工場の前の空き地も昔からあったらしい。10年以上も建物も立たず放ったらかしの状態だったから、ものすごく地面は荒れている。
子供の時に友達と掘った落とし穴は、長い時間を経て雨が降るたびに穴が深くなっていて、ある時ふと覗いてみたら、使えなくなったテレビとくたびれたソファーが穴の中に捨てられていた。
キックベースや缶けりをやった跡は、いつの間にか消えて、そこには雑草が生い茂り、秋には群生したセイタカアワダチソウがまっ黄色の花を咲かせて、風に揺れていた。
きれいに整地したら、サッカーコートが2面ぐらいとれそうな荒れ放題の空き地だ。
俺はその空き地で、いつも一人でボールを触っている……。

サッカー用のトレーニングシューズに履き替えると、軽く体を準備運動をする。
膝の靭帯をゆっくりと息を吐きながら伸ばしていく。
吐く息が真っ白になる冬の朝、かじかんだ体を時間をかけて暖めると俺はボールを出す。
始めにボールを腰の高さまで持ち上げると、俺はそこから手を離す。
重力の方向に向かってボールが地面に落ちる寸前に、俺の足先の甲で受け止める。
やわらかく、やわらかく。
一瞬、吸盤の様にボールは吸い付いたかと思うと、俺の甲をジャンプ台にしてふんわりと浮かび上がる。
膝の高さまで浮かぶと、またボールは俺の甲に落ちてくる。
地面には落ちない!
俺の甲、膝、腿、肩、背中、頭…太陽の周りを周る地球みたいに、ボールは俺の体を跳ねながら周るんだ。
ボールリフティング。
サッカーの中で俺が一番楽しいと思える遊び。
ついた数をカウントしながら時々眼を瞑る。
荒れ果てた空き地が一瞬、南米の子供達がはだしでボールを追い求めて乾いた大地の中で走り回っている様な幻想に囚われる。
小さな子供が人形を使って自分の世界に入る様に、俺はボールを使って自分の世界に入り込んでしまうのかもしれない。
ボールをついた数が1000を超えると、体中が熱くなってくる。
少し膝が疲れてくるから、一旦ボールを高く上げて俺は額に乗せる。
体の全てのバランスを保ちながら、時々首を横にずらしながら落ちてこないように額の上でキープする。
はたから見たら、何処かの修行僧の荒行に見えるかもしれないけど、たいした事ではないんだ。
ボールの皮を肌で感じながら、その向こうの突き抜けた青空を覗いてみる。そこから見える景色は結構面白い。
曲芸の様な遊びに興じている間、太陽はゆっくりと高く上がる。
やがて有刺鉄線の向こうから、7時の時報と共にサイレンが鳴る。
「夜勤の皆さん、今日の労働は終了しました。皆さんお疲れ様でした。
各自持ち場の片づけ、点検が終了次第退社の準備を行って下さい。
なお、帰りのマイクロバスは7時10分に発車します。業務連絡…」
決まって7時には、社内放送が辺りを響かせる。
そして、少したつと夜勤明けでぐったりと疲れた従業員を乗せた古いマイクロバスがゆらゆらと揺れながら、舗装されていない道を街に向かってのろのろと走り出す。俺はバスが空き地の横を通る時だけ、額に乗せたボールを一度だけ地面に落とす。そして、また膝より下の高さでリフティングをしながら、バスが通り過ぎるのをじっと見つめている。
いた…!
今日も「アイツ」が俺を見ている。
すし詰めになった車内の中、曇ったガラス窓から俺より少し背の低い、少年の瞳が俺を見つめている。
水蒸気で曇った窓を少し浅黒い肌のこぶしで拭きながら、大きな瞳で何か訴えるかの様な表情で俺を見ている。
「なんなんだよ、アイツ」
俺はボソリと呟きながら、ボールをついた。
マイクロバスが俺の前を過ぎ去り小さくなっていくと、俺の周りで小犬の様にまとわりついていたボールは、
急にぜんまいが切れたようにポトン…と地面に落ちた。
俺はゆっくりと落ちたボールを拾いあげると鞄にしまい、靴を履き替えて自転車のペダルを漕いだ…。
第一話後書き…日曜日から連載すると言っておきながら、結局月曜日に。(とほほ)
昨日は母の日と言う事で、母さんと家人と一緒に市内で夕食を一緒に。
母の誕生日も近いので、本当は鞄でも縫ってプレゼントしようかと思っていたのに、何にも用意できず。
それでも母は満足そうだったので、良かった良かった。
さて小噺が始まりました。
稚拙な文章で読みづらいかと思います。
よろしければ、話の続きにお付き合いください。
久しぶりに小噺なんぞ、書いてみる。(予告 2007.05.11

変なタイトルではじまりましたが、今度の日曜日から小説を連載してみることにしました。4年前に書き上げた掌編ですが、連休の間もう一度読み直して改稿しました。
ジャンルで言うと、児童文学かな。
毎日一人でサッカーボールを蹴っている少年と、
小さな町工場で働く日系ブラジル人の少年との心の触れ合いのお話。

文字だけではつまらなかいかもしれないので、今回は一話ごとに挿絵か写真をつけようと思います。
素人の書く話なので、読みづらいかと思いますが
良かったら話にお付き合い下さい。
小説 「書道家の恋」 2005.10.25
書道家の彼は、私と会う時には必ず一枚の色紙と短冊、そして筆を持ち歩いている。
何でそんなものを持ち歩くのかと聞くと、「書道家だから」と言う。
彼は私が高校の時まで過ごした家の隣に住んでいた。
彼の家は、彼のお父さんが書道教室を開いていて、私は一年だけそこへ通った事がある。
彼と私がどうして恋愛感情を互いに抱くようになったのか…これはあまりはっきりしない。恋人としてつきあうようになったのは二年前。
彼が自ら墨を溶いてしたためた「ラブレター」がきっかけだったかもしれない。
ちなみに彼は世俗的な事には非常に疎く、実際の年齢より時々老けて見られがちだ。
ちゃんとよく見ると、なかなか整った顔をしているのに髪はボサボサで服はあまり構わない。
でも彼が人前で字を書き出すと、大抵の若い女の子は彼の事が好きになってしまう。私がその一人に入るけれど。
彼の書く文字には、人を惹き付ける何かがあるのかもしれない。
他にも、彼の不思議っぷりはいたるところにある。
例えば、携帯電話は去年の冬に居酒屋のトイレに水没したきりで、新しいものを買おうとは微塵も思わない所とか。
この前「なかなか浅井くん(彼の名前)と連絡が取れないんだけど、どうしたらいいんだろね」とぼやいてみたら、
彼はあっけらかんとした口調でこう答えた。
「そんな時は糸電話でもあるといいよねえ…」
糸電話だなんてそんな、少し頭がどうかしているのではと思ったけれど、翌日彼は、私の家へ本当に糸電話を届けにやってきた。
それももったいぶって桐箱に入れてだ。
検尿コップと良く似ている白い紙コップに、彼は驚くほど達筆な筆文字で「想いを伝えてね」と書くと私の手に握らせた。
達筆なのは「書道家」なのだから当たり前だとして、彼なりの私への想いが少しくすぐったくて、不本意ながらはにかんでしまった。
すると彼は、ただ黙って私を抱きしめてくれた。背中に回された手から微かに墨汁の匂いがしたけれど、私はとても幸せな気持ちになった。
そして今日は日曜日。
良かったら近くの海に行きませんか。彼はそう言って私をデートに誘ってくれた。
「いいけど、お弁当とか何にも作らないよ」
玄関の扉越しに、私は例の紙コップを使って、少しぶっきらぼうに返事をした。
「構わないです。お弁当とかお茶とか食後のケーキとか用意されなくても全然大丈夫ですから」
私の返事を逆手にとって、彼は茶目っ気たっぷりに、そう返してきた。
「何その言い方」と言いながら玄関を開けると、彼は満面の笑顔で私を迎えてくれた。
「行こう、海に」
君に伝えたいことがあるから。そう言って、彼は私の手を取る。紙コップは靴箱の上でコロンと転がった。

彼と出かけた海は曇り空のせいで、ちっとも綺麗に見えなかった。季節が冬に近いからかもしれない。
海面は青と言うより鉛色に見えて、空と海の区別は殆どつかない。
元々人気の無い海水浴場だけれど、季節を外すとそれは更に寂しい。
浜辺に残る轍の跡は、ひと夏の想い出を語る様で、風が吹くたびに少しずつ形を変えている。
彼はここで、私に何を伝えたいのだろうか。
彼より少し先を歩いていた私は、立ち止まって振り返った。
彼は打ち寄せられた流木の破片を手にとって、先の所を手で裂いていた。破片と言ってもそれは結構大きい。
少し離れた所からみると、それは宮元武蔵が巌流島へ渡るために自分で削った小船の艪に似ている。
「浅井くん」
「うん?」
彼は私の顔を見ると、にこりと笑った。
「ああ、ちょっとそこから見ててね、僕がここに字を書くから」
「ここに?」
波が引いて平になった砂浜を指すと、彼は靴を脱いで裸足になった。
そして「よしっ!」と気合を入れるような声をかけると、彼は砂浜に木片の先端を打ち付けた。
「ゆーめっ!」
号令をかけるかのように叫ぶと、彼は流れるような字で「夢」と書く。湿った砂地に彼の筆跡がくっきりと残る。夢と言う字の、最後にしっかりと止めた所に白い貝が転がっている。彼はそれを拾い上げると、ぽんと私に放ってよこした。
「僕の夢はね、君の事を“浅井さん”って呼びたいんだ」
「えっ?」
一瞬、彼が何を言っているのか分からなかった。「どういうこと?」と聞き返すと、彼は「ああ、そのー」と言って頭を掻いた。
「だからね」
そう言うと、彼は防波堤に置きっぱなしにしていた鞄を取りに行った。そして短冊と小筆を取り出すと、私の傍へ寄ってきた。
「君の事を……」
そこから先は彼の筆が語っていた。
展覧会や書展に出品するような文字ではなく、子どもが始めて筆を握るときに教わるような優しい文字で、彼は私の名前の上に自分の苗字を重ねて書いた。
「どうかな、読み辛いかな」
もしなんなら、僕が君の苗字をもらってもいいけど。
私が彼の「申し出」を断るとは少しも思っていないのが、小憎らしい。でも、彼なりの精一杯の想いは私の心を温かく包み込んだ。
「ううん、読み辛くないよ」
私もその方がいいと思ってた。浅井君の夢、きっと叶うと思うよ。
泣かないように精一杯我慢しながらそう言うと、彼は「うんうん」と大きく肯いた。
そしてまた何かを書き足そうと筆を持ったものの、筆先は空の方を向いたまま止まった。
「浅井くん、寒いから帰ろう」
私は彼の手を取ると、彼の顔をじっと見つめた。
話の続きは、あなたの部屋でゆっくりと聞かせて。
どんなに時間をかけてもいいから、ちゃんと言葉で伝えて、お願い。
私の想いを読み取ったかのように、彼は私と手を繋いで歩き始める。
彼の手元から墨汁の微かな匂いがした。
FIN
いつか書きたいと思っている話があります。
書道教室の息子と、教室の隣の家に住む女の子との初恋の話。
これはその話の元ですな。
何でそんなものを持ち歩くのかと聞くと、「書道家だから」と言う。
彼は私が高校の時まで過ごした家の隣に住んでいた。
彼の家は、彼のお父さんが書道教室を開いていて、私は一年だけそこへ通った事がある。
彼と私がどうして恋愛感情を互いに抱くようになったのか…これはあまりはっきりしない。恋人としてつきあうようになったのは二年前。
彼が自ら墨を溶いてしたためた「ラブレター」がきっかけだったかもしれない。
ちなみに彼は世俗的な事には非常に疎く、実際の年齢より時々老けて見られがちだ。
ちゃんとよく見ると、なかなか整った顔をしているのに髪はボサボサで服はあまり構わない。
でも彼が人前で字を書き出すと、大抵の若い女の子は彼の事が好きになってしまう。私がその一人に入るけれど。
彼の書く文字には、人を惹き付ける何かがあるのかもしれない。
他にも、彼の不思議っぷりはいたるところにある。
例えば、携帯電話は去年の冬に居酒屋のトイレに水没したきりで、新しいものを買おうとは微塵も思わない所とか。
この前「なかなか浅井くん(彼の名前)と連絡が取れないんだけど、どうしたらいいんだろね」とぼやいてみたら、
彼はあっけらかんとした口調でこう答えた。
「そんな時は糸電話でもあるといいよねえ…」
糸電話だなんてそんな、少し頭がどうかしているのではと思ったけれど、翌日彼は、私の家へ本当に糸電話を届けにやってきた。
それももったいぶって桐箱に入れてだ。
検尿コップと良く似ている白い紙コップに、彼は驚くほど達筆な筆文字で「想いを伝えてね」と書くと私の手に握らせた。
達筆なのは「書道家」なのだから当たり前だとして、彼なりの私への想いが少しくすぐったくて、不本意ながらはにかんでしまった。
すると彼は、ただ黙って私を抱きしめてくれた。背中に回された手から微かに墨汁の匂いがしたけれど、私はとても幸せな気持ちになった。
そして今日は日曜日。
良かったら近くの海に行きませんか。彼はそう言って私をデートに誘ってくれた。
「いいけど、お弁当とか何にも作らないよ」
玄関の扉越しに、私は例の紙コップを使って、少しぶっきらぼうに返事をした。
「構わないです。お弁当とかお茶とか食後のケーキとか用意されなくても全然大丈夫ですから」
私の返事を逆手にとって、彼は茶目っ気たっぷりに、そう返してきた。
「何その言い方」と言いながら玄関を開けると、彼は満面の笑顔で私を迎えてくれた。
「行こう、海に」
君に伝えたいことがあるから。そう言って、彼は私の手を取る。紙コップは靴箱の上でコロンと転がった。

彼と出かけた海は曇り空のせいで、ちっとも綺麗に見えなかった。季節が冬に近いからかもしれない。
海面は青と言うより鉛色に見えて、空と海の区別は殆どつかない。
元々人気の無い海水浴場だけれど、季節を外すとそれは更に寂しい。
浜辺に残る轍の跡は、ひと夏の想い出を語る様で、風が吹くたびに少しずつ形を変えている。
彼はここで、私に何を伝えたいのだろうか。
彼より少し先を歩いていた私は、立ち止まって振り返った。
彼は打ち寄せられた流木の破片を手にとって、先の所を手で裂いていた。破片と言ってもそれは結構大きい。
少し離れた所からみると、それは宮元武蔵が巌流島へ渡るために自分で削った小船の艪に似ている。
「浅井くん」
「うん?」
彼は私の顔を見ると、にこりと笑った。
「ああ、ちょっとそこから見ててね、僕がここに字を書くから」
「ここに?」
波が引いて平になった砂浜を指すと、彼は靴を脱いで裸足になった。
そして「よしっ!」と気合を入れるような声をかけると、彼は砂浜に木片の先端を打ち付けた。
「ゆーめっ!」
号令をかけるかのように叫ぶと、彼は流れるような字で「夢」と書く。湿った砂地に彼の筆跡がくっきりと残る。夢と言う字の、最後にしっかりと止めた所に白い貝が転がっている。彼はそれを拾い上げると、ぽんと私に放ってよこした。
「僕の夢はね、君の事を“浅井さん”って呼びたいんだ」
「えっ?」
一瞬、彼が何を言っているのか分からなかった。「どういうこと?」と聞き返すと、彼は「ああ、そのー」と言って頭を掻いた。
「だからね」
そう言うと、彼は防波堤に置きっぱなしにしていた鞄を取りに行った。そして短冊と小筆を取り出すと、私の傍へ寄ってきた。
「君の事を……」
そこから先は彼の筆が語っていた。
展覧会や書展に出品するような文字ではなく、子どもが始めて筆を握るときに教わるような優しい文字で、彼は私の名前の上に自分の苗字を重ねて書いた。
「どうかな、読み辛いかな」
もしなんなら、僕が君の苗字をもらってもいいけど。
私が彼の「申し出」を断るとは少しも思っていないのが、小憎らしい。でも、彼なりの精一杯の想いは私の心を温かく包み込んだ。
「ううん、読み辛くないよ」
私もその方がいいと思ってた。浅井君の夢、きっと叶うと思うよ。
泣かないように精一杯我慢しながらそう言うと、彼は「うんうん」と大きく肯いた。
そしてまた何かを書き足そうと筆を持ったものの、筆先は空の方を向いたまま止まった。
「浅井くん、寒いから帰ろう」
私は彼の手を取ると、彼の顔をじっと見つめた。
話の続きは、あなたの部屋でゆっくりと聞かせて。
どんなに時間をかけてもいいから、ちゃんと言葉で伝えて、お願い。
私の想いを読み取ったかのように、彼は私と手を繋いで歩き始める。
彼の手元から墨汁の微かな匂いがした。
FIN
いつか書きたいと思っている話があります。
書道教室の息子と、教室の隣の家に住む女の子との初恋の話。
これはその話の元ですな。

